
今日は何の気まぐれか、『竹島問題』について書く。めっちゃ長いし、つまらんので、忙しい人は読まなくても結構である。
さて、島根県議会が2月22日を「竹島の日」とする条例を可決したことで日韓関係がまたも揺れている。
竹島は北緯37度9分、東経131度55分に位置する、日本海に浮かぶ孤島である。西島と東島の二つの島と数十の岩礁からなり、総面積は0・23平方キロ。東京ドームの約5倍ぐらいの面積である。飲料水の確保が困難で、しかも四方は2島とも断崖(だんがい)絶壁。昔から人が住めない島であった。
この竹島が日韓どちらの国に属すのかをめぐる論争が、いわゆる『竹島問題』である。現在、竹島は、日本では島根県隠岐の島町に属しており、韓国では独島(トクトあるいはドクト)と呼ばれ慶尚北道鬱陵(うつりょう)郡に属している。
そもそもの『竹島問題』は1952年1月18日に、当時の李承晩(イスンマン)韓国大統領が「隣接海洋の主権」を主張し、公海上に「李承晩ライン」を宣言したことが発端である。1905年2月22日に既に竹島は島根県に編入されていたが、そのライン内に竹島が入っていたからである。そして54年9月2日、韓国政府は竹島の武力占拠を決定し、15日には灯台を設置して日本に通告した。日本は国際裁判所への提訴を韓国政府に打診しましたが、韓国側はそれを拒否した。以来、今日に至るまで、日韓の間で竹島問題に対する話し合いがなされていない。
李承晩ラインが引かれた理由は三つある。一つは、漁業活動での衝突を回避しようという意図。朝鮮半島近海では戦前から日本が漁労活動をしており、戦後も同様なら漁業被害を受けるとの危ぐを韓国側は抱いていた。
二つめはサンフランシスコ講和条約の第2条のa項、朝鮮の領土の規定の部分に関係している。講和条約では当初、竹島は朝鮮の領土とされていたが、最終案では日本領土となった。それを知った韓国側は、条約の発効以前に竹島の領有権を主張しようと考えたのである。
三つめは、国交正常化交渉での外交カードが欲しかったということ。交渉での韓国側の課題は、朝鮮半島に残された日本人の個人財産にあった。それは一説には韓国の全財産の80〜90%とも言われた。それを全部持ち出されれば、韓国は破たんしてしまう。韓国側は結果的に、李承晩ラインを根拠に200隻以上の日本漁船を拿捕(だほ)し、正常化交渉では抑留漁船員と竹島をいわば人質に、日本政府に譲歩を迫った。
韓国が竹島を領土の一部とする根拠の一つは、1770年に書かれた「東国文献備考」という書物である。その一篇「輿地考(よちこう)」の中に<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>と、于山島(うさんとう)が日本の松島だという分註(ぶんちゅう)があります。松島は、昔の日本での竹島の呼び名である。そのため、韓国側は「東国輿地勝覧」(1481年成立)や「世宗実録地理志(せそうじつろくちりし)」(1454年成立)に出てくる于山島も竹島のことと解釈しました。また、「東国輿地勝覧」によると、鬱陵島とその属島の于山島を含む于山国は512年に新羅に編入されたので、竹島は6世紀初めから韓国(朝鮮)領だった、というのが韓国側の主張である。
一方、日本は松江藩藩士の斎藤豊仙(ほうせん)が著した「隠州視聴合記(いんしゅうしちょうごうき)」(1667年)を論拠としていたので、韓国側が論拠とする文献の方が200年ほど古いことになる。より古い文献に于山島の名があるので、歴史的に竹島は韓国固有の領土であるというわけである。
ここで問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、「東国文献備考」の分註が正しいのかどうかである。
于山島を竹島とする言説は、1696(元禄9)年6月、鳥取藩に密航した安龍福という人物が、帰国後「松島は即ち于山島、此れ亦我国の地」と証言したのが最初である。「東国文献備考」には「輿地志に云う」とあるので、1656年に成立した「輿地志」でそれを確認し、分註を検討できればよいのだが、それには二つの問題点がある。
一つは「輿地志」が現存しないこと。もう一つは「東国文献備考」が別の文献からの引用であったことである。そこで、その底本に当たってみたところ、底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていた。この意味は、于山島と鬱陵島は同じ島(の別の呼び方)であったということで、松島(現在の竹島)については一言も触れていない。つまり韓国側が依拠した「東国文献備考」は、引用される際に改ざんされ、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>となったわけである。これで韓国側の論拠が一つ崩れたことになる。
しかし、于山島を松島(竹島)とみなす韓国側は「東国輿地勝覧」や「世宗実録地理志」の中の于山島を竹島とし、そこに記された「見える」の一文を鬱陵島から竹島が見えると読み、竹島を固有の領土と主張したのです。だが、300年ほど前、日本と朝鮮が鬱陵島の領有権を争った際、朝鮮側は同じ文献を、朝鮮半島の蔚珍(ウルチン)から鬱陵島が「見える」と解釈し、鬱陵島の領有権を主張した。同じ文献が、鬱陵島と竹島それぞれの領有権を主張する根拠にされていたのである。
そこで「東国輿地勝覧」と「世宗実録地理志」の編さん方針を見ると、島の場合は、管轄する官庁からの距離や方角を記すことになっている。鬱陵島だと、管轄する蔚珍県から遠く離れていて実測が困難なため、蔚珍県から鬱陵島までは「見える」距離にあると表現しているのである。すると、「東国輿地勝覧」などに見える于山島は、鬱陵島近くの小島となる。事実、安龍福は于山島を鬱陵島の北東にあると言っている。地図を見ると分かるが、竹島は鬱陵島のほぼ東南にある。なので、安龍福が見た于山島は鬱陵島付近の竹嶼(現在のチクトウ)だったことになる。
さらに、韓国側は1900年の「勅令第41号」に依拠して、1905年の竹島の島根県編入を侵略行為と主張した。勅令には、鬱陵島の属島として石島(トルソン)の名があることから、この石島が、発音が似ている独島に違いないというのである。しかし、韓国で竹島を独島と呼ぶのは1904年ごろからのことである。石島を独島と決め付けるのは無理がある。なぜなら、1882年と1900年、韓国側が鬱陵島の調査をした際、竹島を確認していないからである。竹島が島根県に編入された時、竹島はどこの国にも属さない無主の地であった。従って日本が竹島を島根県に編入したことは、侵略行為とは言えないのである。
韓国側は、独島は歴史的にも国際法的にも、韓国固有の領土であることは明々白々であると主張するが、その根拠は薄弱なのである。そして、日本が国際裁判所への提訴を韓国政府に打診しても韓国側がそれを拒否するのは、この根拠の薄弱さに理由がある。
竹島問題に限らず、日韓の歴史問題は、文献や史料の検証がなされないまま、「侵略された」という歴史認識で過去が語られるため、身動きが取れなくなっている。日本の竹島研究についても1960年代後半以降停滞している。日本が自己主張するためには、相手の論を覆す決定的な論拠が必要であるが、日本側からは十分に反論されていない。
竹島問題に関しては、問題が浮上すると韓国側が反発するだけで、加えて日韓の間には対話がないために、歴史の理解が一方的になりがちである。過去の戦争に必要以上に負い目を感じているのか、日本側は強く言えないでいる。しかし、今、韓国側が主張していることも「侵略行為」と相違無いことに気づかないのだろうか。文句があるなら国際裁判所の壇上にあがれ、って話である。感情だけで動いているから、女のヒステリーと同じで手がつけられない。理屈が通じないのだから。
そんな中、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「日本の態度は人類社会が共に追求すべき普遍的価値にそぐわない」「侵略と加害の過去を栄光と考える人たちと一緒に生きるのは全世界にとって大きな不幸」などと発言した。なんとも馬鹿げた電波な発言である。侵略と被害の過去を60年後までもネチネチと外交カードに使う国に言われたくない!って話である。
「侵略と加害の過去を栄光と考える人たちと一緒に生きるのは全世界にとって大きな不幸」という発言は是非アメリカに対して言ってほしいものである。アメリカこそ侵略によって成った国であり、今尚、他国への加害によって国が成り立っているのだから。